不登校論議に思うこと

数回前にあげた「不登校という選択肢はありなのか」というブログに対して、こんな意見が来ました。

簡単にまとめると、

「ブログの中では、ありと言っていますが、内容を見ると、不登校の子たちを学校に来るようにしたことばかりで、とても不登校という選択肢をアリと言っているようには見えません」と。

ここ最近は、不登校のYouTuberさんとかもメディアが取り上げ、それに対して、いろいろな方が論議されています。

今回は、そうした背景も踏まえて、「不登校という選択肢はありなのか」というブログの中で表現していない気持ちの部分を補足する意味で、不登校論議に思うことをレポートしたいと思います。

 

 

 

それぞれの立場で行動することが大事

まず、いろいろな立場で視点が違っていいと思うんです。

結論からいうと、教師は、「学校に来れない子がいたら、どうやったら学校に来れるようになるかなって考えるのは当たり前」ということ。それは、不登校を認めていないとかそういうことではない。その方法が論議されるのはいいと思う。無理やりは良くないと思うし、かといって、放っておくという方法をとったとしても、無関心ではいけない。

親が努力すべきことではあったとしても、親に丸投げでも良くない(いずれはそうなるのかもしれないが)。

 

私自身も昔、大学で時間をつくるために、部活をやめることをキャプテンに伝えにいきました。

私が母子家庭であること。一人暮らしをする理由(当時はピアノの練習時間を確保したかったので)なども理解してくれました。

その時のキャプテンの言葉。

「先輩として、おまえのことは分かった。がんばれと応援もしたい。でも、キャプテンとしては、お前を引き留めたい。そうでないと、キャプテン失格やと思う。」

この言葉ってすごく心に残っています。

 

教師をやっていたときも、いろいろ子どもたちの相談やトラブルがあったときに、この視点がありました。

・人として

・仲間として

・教師として

この3つの役割で、言葉を常に伝えていました。教師としての考えは必ず伝えるし、それが私自身のスタンスでもある。でも、それがすべてではないということ。

1つの立場だけを子どもに伝えていたら、子どもはその言葉が答えになってしまいます。仮にそれで子どもがいうことを聞いたとしても、子どもが決断しているのではなく、子どもがそれしか選べていないかもしれません。

 

この不登校の問題も、私はこう考えます。

人として

「つらいなら行かなくてもいい。行きたくないなら無理しなくていい。」

仲間として

「つらい思いをさせてごめん。行きたいと思える学校(教室)にできていなくてごめん。」

教師として

「つらいことがあるなら相談にのるから。行きたくないと思ったなら、何が嫌なのかを伝えてほしい。私は、あなたに学校に来てほしい。」

 

結局どういうことなの?となりますよね。でも、実際そうなんです。

 

 

私が不登校の子に学校へ来れるように努力した理由

つぎに、「不登校を認めるとか認めないとかそういう論議は必要ないということ」

例えば、眼が悪くなるから「テレビは離れてみよう」とか「姿勢をよくして」とか「明るさに気を付けて」とかありますよね。でも、(目の病気はおいておいて)眼が悪くなるだけなら、「眼鏡」や「コンタクト」でなんとでもなります。

つまり、眼が悪くなったら、確かにお金もかかるし、そうした道具がないと見えないから不便ではあるけれど、眼が悪くなったからと言って、「どうしよう・・・」と困ることでもないんです。

でも、「目が悪くならないことにこしたことはないですよね。」

 

逆に・・・。

発表の声が小さかったらやり直しをさせたりします。発表会とかがあって、声が小さかったり聞き取れないときは、やり直しや指導をします。

本質的に声の小さい子や性格的に出せない子は、逆に、聞く側にも努力をさせます。同じ教室にいる仲間。とくに小学校は、6年間一緒。だれが、発表のときに声が出しにくいとか分かってるんです。だから、小さい声でも安心して発表できる場を作らないと、声の小さい子は発表すらできないんです。

その子なりに、出しているかどうかなんて、みんなわかるんです。 

これを、一律に、この大きさまで全員出すってことにこだわると、声の出せない子は、安心した場にならないんです。

「声が出せることにこしたことはないですよね。でも、それができない子だっている。」

だったら、それを理解しサポートしてあげる教室を作ってあげることが大事です。

でも、声が出せるのに、めんどくさいとか、嫌だという理由だけで出さない子は、周りが分かりますし、周りは、その子に対して「どういうことだ」と思う子も出てきます。その子を先生がそれでいいよというと、自分はがんばって出しているのにと、先生を不信に思ったり、先生の指導に従わない子もでてきます。

 

 

 不登校のYouTuberさんが言われている言葉に

「学校に行きたいやつは行けばいい。行きたくないやつはいかなくていい。」

があります。この部分が引っかかっている人もいると思うんです。

「行きたいか行きたくないか?」この言葉ずらは、見た目はすごく軽いですよね。

「部活したいか?したくないか?」「習い事したいか?したくないか?」みたいな自由に選択できる軽い言葉に見えますよね。

 きっと、部活だって習い事だって、できるんならやった方がいいと思うんです。しんどいこともつらいこともあるけれど、やり切ったことがある人にしかわからない世界というものがあります。本気で悔しいと思うことも、そのとき、一緒にがんばった仲間とか、先生に怒られても歯を食いしばったあの時・・・、いわゆる学校生活の中には、学校生活どくとくの青春がありますから。

 でも、部活がしんどいとか、習い事の宿題が嫌だとか、それでやめたとしても、自由なんですよ。

 じゃあ、どうして「学校」は自由に行く行かないを決めてはいけないの?

 

 「学校も行けるんなら行った方がいい」と思うんです。勉強もただで教えてくれるし、1日を自分を律して毎日生活することの大変さも、全員がこなせるものではないですから。

 でも、つらいこともあります。勉強が苦手でも宿題をしなければいけないときもあります。テストの点数で評価されてしまう現実があります。

 それが耐えられない子は?

 

 そうなんです。行けるなら行った方がいいんです。でも、そこに適応できない子がいます。それが、どんな理由であれ、嫌という気持ちは、人によって大きさは違います。今回のYouTuberの子は、行けないのではなく、「行かない」という選択肢をとっている(と思われている)から、反発があります(最近の反発は、煽っている方が強いようですが)。

  行けるのに行かないという選択肢を取った(と思われている)場合は、声の小さい子のときにお話したように、周りは「行けるんでしょ?」と、それに対して反発する人は出てくるものなんです。

 そして、反発する人の気持ちも理解できるものなんです。

 

 何が言いたいかというと、もう世の中のほとんどは、「学校に無理して行く必要はない。」と分かっています。どんなに、すばらしい仲間と出会い、素敵な思い出を持っている人でも、その近くで、苦しんでいる友達を見たり、そうしたニュースやドラマ(フィクション)を見ているので。

 でも、教師が、子どもたちの前で

「学校には、来ても来なくてもいいよ。来たい子は来たらいい。来たくない子は、来なくてもいい。」

なんてスタンスで教師をやっていたら、やっぱり問題なんですよ。

教師は、やっぱり、「来てほしい」というスタンスでいいんです。まあ、それを不登校の子の前で表すのはタイミングが大事ですけどね。

 

 

学校に行かない・行けない(不登校)で、

当然、親は、世間の目も気になるだろうし、子どもを理解するのに大変だろうし、子ども自身も、どうして行けないのかとか悩んでいる子もいます。人間関係で悩んでいた子やいじめにあった子は、トラウマになってしまっている子もいるし、フラッシュバックする場となっているかもしれない。でも、その子に学校に来ていほしいと本気で足を運んだりした友達や先生もいるだろうし、そうした人は、その子のために多くの自分の時間を費やしたと思う。

 

でも、「学校行かないの?いいんじゃない?そういう時代でしょ」だったら、それはそれで、理解があるのかもしれないが無関心でもある。

 

今回のYouTuberの子に対しては、親が義務を果たしてないという論争もあります。

仮にYouTuberの子が、本当に学校に行けなくて、自分の居場所が家にしかなかった。でも、YouTubeで、自分を表現できる場所を親が作ってあげた。そこから、生き生きと活動するようになったと考えれば、けっこう回りも理解があるのではと思います。

 

親も、学校へ行けるように努力はすべき。でも、それしか選択肢がないのではなく、その子がその子らしく生きていけるように場所を提供してあげるという選択肢も親としてはありですよね。

 

 

先生として、

友達として

親として

すべてが、いろいろな考え(立場)のもと、その子のために行動しているということ。

 

本当に苦しんでいる不登校の子どもは、ここを受け入れるのに時間がかかります。だって、自分のために行動してくれていると受け入れることは、迷惑をかけていると置き換えることもできるので。

だから、その間は、親が全力で守ってあげること。先生は、友達も含めて、距離感をしっかりとコントロールしてあげることが大事。あと、カウンセラーなどの専門家とつないであげることが大事です。

そして、エネルギーがたまってきたら、そうした部分も受け入れられて感謝の心が生まれると思うんです。

 

 

 

 

 

あわせて読みたい